笠原小百合

記事一覧(6)

ムラサキの谷

 浮遊しているわたしという存在に前も後ろもないのなら上も下もないわけで、ではひたすら歩みを進めているこの足は一体何処へと向かっているのだろう。 踏み込んだ右足は沈んでいき、やがて角度がついて身体ごと一回転した。くるり。あたりを覆っている白い靄が全身を使ってかき混ぜられる。無重力状態で雲の中を歩いているみたいだ。ふわり。滞留しているその白さはわたしの作った空気の流れに沿って動く。次第にこの白い靄に対して、自分の飼い犬かのような愛おしさがこみ上げてくる。そう思わせる何か、意思とか鼓動とかを感じるほどに白い靄は生きて存在していた。 何にも執着しないでここまで来たら、いつになっても手ぶらのままだった。荷物などは何一つ持たず、着の身着のまま歩き続ける。唯一、持ち物と呼べるだろうもの。それはそう、記憶。過去を持っているわたしは未来へと進むはずなのに、どうしても今という世界が見つからない。今はすぐに過去に姿を変えてしまい、いつまで経っても掴むことが出来ない。例えば、何か言葉を発すればそれはすぐ後方に流れていってしまう。となると、確固たる今という時間は一体どの瞬間のことを指すのだろうか。「そんなもの、見つけようとするから、見つからないのよ」 声のする方に顔を向けると、一匹の蝶が忙しなく翅を動かしている。ヘリコプターがホバリングしているかのごとく、蝶はわたしの右肩上でその位置を守っている。ハチドリは確か同じ場所で飛び続けることが出来たはずだが、蝶はどうだったか。一箇所に留まろうとする意思は感じられるが、現実には大体同じくらいのエリア内でふらつくように飛んでいる。紫の翅は思っていたより分厚く、その分力強く空を切っていた。ひらひらというよりはふらふらとしたその飛び方は、今にも吹き飛んでいってしまいそうな不安定さで目が離せない。 蝶を見つめながらでもわたしは歩くことが出来た。真っ直ぐ前に進んでいるという保証はなかったが、真っ直ぐ前に進む必要はなかった。この白い靄の中では「真っ直ぐ」も「前」も、どれが正しいのかなどわからない。わたしはただ闇雲に足を動かしているだけであって、もしかしたら歩いてなどいないのかもしれない。本当に進んでいるのかどうかもわからないのだから、実はこれは歩くという行為の真似事をしているだけなのかもしれない。それでもわたしはこの行為が「歩く」ということだと信じている。何も見えない白い靄の中でひたすらに歩き続ける。歩き続けること以外、他にすることはない。 いや、ひとつだけあった。わたしは時折、夢を見る。夢の中のわたしは大学という場所に通っていて、優しい家族がいて、笑い合える友達に囲まれていて、少し素っ気ない恋人がいて、将来や色々について悩んでいて、世界が悲しみに染まらないようにと祈っていて、そして無力だった。とても微笑ましくあたたかな気分になれる夢。毎回同じ夢で、毎回蝶の声に気付き目が覚める。そして毎回そのままずっと夢を見ていたかったと思い、毎回すぐに忘れてしまう。 蝶がもう何も喋ってくれないことをようやく察知したわたしは、視線を前に戻す。正面がどこなのかもわからないけれど、わたしはいつもなんとなく前方と思われる方を見つめている。その確固たる視線が一筋の希望となれば良いのだけれど、実際はきょろきょろと所在なげにそれは泳ぎ、わたしの不安を顕わにするだけだ。なんだか、蝶の下手くそなホバリングの動きによく似ていた。 それから何日も経ったのか、あるいは数秒後だったのか、詳しくは覚えていないし覚えている必要もないだろう。ただ、その時わたしが歩みを止めたのは、止まろうと思ったからではないことだけは伝えておきたい。驚いて、自然に足が動かなくなったのだ。途切れることなく続いてきたことの終わりの瞬間なんて、そんな風に呆気ないものなのかもしれない。ぽわん。可愛らしい音とともに突如として目の前に現れたスイッチ。その周囲は靄が更に濃くなっており、白い壁の一部が浮いているようにも見えた。オンとオフを切り替えるためのスイッチなのだろう。今はスイッチの下部が押されており、上部は今にも押して欲しそうな出っ張りを見せていた。これが核爆弾のスイッチだったら、この世界はきっとすぐに終わってしまう。それほどまでに、思わず手を伸ばしたくなる完璧なまでのスイッチだった。見事に誘われたわたしは人差し指をスイッチに押し当て、先端に力を込めた。ぱちり。一瞬で暗闇が訪れる。何も見えなくなって、慌てて指先を離してしまう。気づいた時にはもう、スイッチがどこにあるのかわからなくなっていた。部屋の電気のようにこんなに気軽に世界の明暗が変えられるのなら、わたしはどちらの世界を選ぶだろうか。そんなことを考えながらまた歩き出す。結局、わたしには歩くしか取り柄がない。やがて暗転した世界の中に浮かび上がる白い小さな扉が見える。選択肢など用意されていない。導かれるまま、暗闇世界に促されるまま、わたしはその扉を開いた。 結論から言うと、扉はどこにも繋がっていなかった。わたしの目に飛び込んで来たのは、わたしの姿。驚いたわたしは歩みを止め、もうひとりのわたしを見つめる。右肩周辺を飛び回っていた蝶がわたしの頬に止まると、同時にもうひとりのわたしの頬にも蝶が止まった。扉を開けるとそこは、鏡になっていたのだ。ゆっくりと蝶は、優雅な曲線を描くようにその翅を動かす。頬に止まった紫は、どちらのわたしに止まっているのかもわからない。鏡の中のわたしなのか、それともここにいるわたしなのか。映し出された世界。覗き込んだ鏡の中の世界のわたしがわたしを見つめる。見つめているのは、わたしなのか。それとも鏡の中のわたしなのか。頬に止まった蝶がどちら側にいるかなんて、本当はそんなのどうでも良いことなのかもしれない。見つめ合うわたしたちは辿り着くべき場所を探して歩き、そしてようやく互いの存在に巡り逢い気付いたのだ。鏡の向こうから、手が伸びる。ぎょっとしているわたしの胸に、わたしは素早くブローチをつけてくれた。小さな雪の結晶の形をしたそれは、勲章のように輝いて見えた。「また、あの夢でも見ていたの?」 気付いたら世界は白く、蝶は右肩上を飛んでいた。誰かがあのスイッチを押したのかもしれない。蝶の言葉にわたしは何度か小さく首を振る。もうあの無力で幸福な夢を見ることはないのかもしれない。だって、出会ってしまったから。その証拠に、今もわたしの胸にはあのブローチが光っている。そうしてわたしはまた、歩を進める。白い靄の中を何処までも、歩き続ける。頬を伝う涙の意味なんて、きっと考えても無駄なのだから。「さあ、着いたわ」 蝶の一声で、周囲の白い靄は一気に消えていく。さっきまで纏わりつくようにそこら中に存在していた癖に、あまりに呆気ない終わり方だった。視線を落とすと、切り立つ崖。その高さに足がすくんで、思わず息を呑む。あと一歩進んでいたらわたしは谷底へ真っ逆さまだった。今にも震え出しそうな身体を押さえ込むように抱きしめる。直面する恐怖に怯えながらも、一度視界に入れてしまった暗い谷底からは目が離せない。「ここは、誰も知らない、秘密の谷」「わたしたち、ここで、変わるのよ」 恍惚の表情でそう言い終えると蝶は、はらりと谷底へ落ちていった。待って、と言いかけてようやく気づく。わたしは、発する声を持ち合わせていない。道理で、言葉を発してみても今が掴めないはずである。発しているつもりで、実際わたしは何も声に出来ていなかったのだ。 谷底は深い。けれど親切にも、谷を削って作られたであろう階段がある。わたしは谷を降りた。谷に沿って作られた階段を降りていくと、蝶の落下していった場所からどんどん離れてしまう。それでも下に降りるためには、横方向への移動が必須だった。谷底へ飛び降りる勇気はわたしにはない。決まっている道というのは、こんなにも無情で苛立たしいものなのか。不安ばかりの白い靄を懐かしく思う。 谷底が近づいてくると、わたしは眼前の風景に圧倒された。暗闇だと思っていた谷底には、うっすらと色が付いている。それはよく見覚えのある色だった。もっと、と思い急いで階段を下りていく。次第にはっきりとしていくその色は、近づいて行けば行くほどその強さを発揮した。紫に染まっているように見えた谷は、数え切れないほどの蝶で埋め尽くされていた。ホバリングをするため翅を動かすと隣同士の蝶がぶつかり、鱗粉が舞い、大気まで紫に染まっている。かろうじて届く僅かな光に群がるように、蝶たちはその命を燃やしていた。そして一匹、また一匹と燃え尽きていく。はらり。落下していく蝶の紫が、最期の曲線を描く。次から次へと続いていくその様子は、小さな世界の滅亡を示していた。もうすぐこの谷間は、足の踏み場もないくらいに朽ちた紫で満ちることだろう。わたしはそのことを何の感慨もなく、受け止めることが出来た。最後の蝶の舞いが終わるのを見届けると、息絶えた蝶たちをひとつひとつ標本にすることに決めた。硬くなってしまった蝶の身体を軟化させるため、胸のブローチのその針で胴体を満遍なく突付く。蝶が蝶であった証を残しておきたい。その際に美しい薄紫の翅がなるべく崩れないようにすることは、償いのように感じられた。わたしの償いではない。きっとそれは蝶自身の、もしくはそういう存在がいるのだとしたら、神様のものだろう。蝶の死骸で紫色に染まった谷。冬を越せなかった蝶たちは、その身体を捨てて飛び立った。そしてその蝶の亡骸に針を突き立てるわたしは、春になってもまだこの身体を捨てられずにいる。

WEB文芸誌「窓辺」とともに

2016年初頭、出産で休んでいたWEB文芸誌「窓辺」の更新を再開した。しばらくは育休として休もうと思っていたのだけれど、いざ休んでみると日常がとても寂しく、耐えられなくなっての再開だった。休止前は月2回の更新に追われる日々でそれが辛かったのだが、なければないで物足りない。なんとも我儘だな、と思う。我儘ついでに、再開とともに窓辺の更新日という概念をなくしてみた。それが功を奏したのか、今ではわたしも作家様もマイペースに窓辺と向き合えている。このままでいいとは思わないが、今の状態は助走期間としてはとても良い環境だと考えている。正直、窓辺を辞めてしまうことも考えた。それでも辞められなかったのは、窓辺がもうわたしの半身のような存在になっているから。これから長い間、窓辺とともに過ごしていく覚悟は出来ている。長く続けていくためにも、来年はじっくりと足場を固めるような、そんな1年にしたい。今年は競馬関連の執筆はたくさんしていたけれど、小説をあまり書かなかった。読むことも書くことも、とても大切な基本的なこと。今後、窓辺に新たに連載として「編集長の読書ノート」という感想レビューの記事を掲載する場を設ける予定でいる。来年は「地道に続けること」をとにかく頑張りたい。5月には文学フリマにて文芸誌「窓辺」第6号も発刊予定。素晴らしいアンソロジーとなるように、最善を尽くしたい。他にもオフラインでのイベント「ブックカフェ窓辺」の開催も余裕が出来れば再開していきたい。いつか花開く時は必ず来ると信じて、自分や仲間を信じて、少しずつだとしても着実に前へと進んでいきたいと思う。

ただ夜に降る雨のように

 夢に堕ちる瞬間はいつも孤独だ。現実世界から物凄い遠心力で放り出される。 一人きりの夜はまだ良い。どうせ初めから孤立した世界に居るのだから、眠りにつくのにそれほど不安は生じない。問題はあなたが隣に居る夜で、既に寝息を立てている場合などたまったものではない。 折角手に入れた安堵を自ら手離す。それはなんと愚かな事なのだろう。そしてなんと恐ろしい事なのだろう。二人で居るというのに、一人にならなければいけない瞬間。その瞬間をわたしは何よりも嫌悪していた。 わたしは目を開いたまま、カーテンの隙間から忍び寄る夜の気配に意識を集中して居た。あなたの背中へぴたりと身体を寄せると聞こえて来るのは、力強い生命維持装置の拍動と穏やかな呼吸の律動。そして、それらを包み込むように、雨の音がしとしと聞こえてきた。「ねえ」 そっと首筋に触れた言葉はあなたの呼吸を深めた。しかしその小さな呟きの効力は無く、わたしの存在を無視したままあなたの背中はしっかりと同じ時の流れを刻んで居た。「ねえ、寝ちゃった?」 わたしのささやかな問いかけに、あなたの背中が大きく動いた。うーん、と小さな声を上げると、ふう、と息を吐き出してのっそりと動き始めた。あなたはわたしの方に向き直ると、さっと身体の下敷きになって居た右腕を差し出した。わたしはごく当たり前に自分の頭を持ち上げて、あなたの華奢な腕の上に乗せた。 それを合図にしたかのように、あなたはわたしをぐいっと引き寄せて力強く抱き締めると、今度はその力を緩めてあたしの髪に優しく何度も触れた。「眠れないの?」 眠たそうな子供みたいな声は、今年の夏に二人で見た降り注ぐ流星群よりも、わたしの胸をときめかせてくれた。その一言だけで、わたしだけに向けられた言葉だけで、人生を終わりにしても良いと想うくらいの絶頂の幸福感を与えてくれた。わたしはあなたの胸に顔を埋めると、「眠るのが怖いの」 そう今にも消え入りそうな声で呟き、あなたの意識を一心にわたしだけに向けようとした。嘘では無かった。怖いのは事実だった。けれどそれを如何に助長する言い方をするかが、わたしにとっては何よりも重要な事だった。今、この国に核爆弾が投下されようともそんな事は大した問題では無かった。わたしには、あなたの存在だけが全てだったから。あなたに抱き締めて貰え無いならばこんな世界等消えてしまっても一向に構わなかった。「大丈夫だよ」 甘い蜜のような囁きがわたしの肌の上にとろりと零れ落ちた。あなたは左手を大きく回してあたしをすっぽりと包み込む。あなたの腕によって濃縮される世界。深まった温もりを感じながら、わたしは今自分の置かれて居る状況を何よりも愛しく想った。 あなたに抱き締められる事によって生じる浮遊感。夢を見て居るような気持ち。水晶の輝きより儚く、この身体に与えられる強靭さ。しなやかに泳ぐ人魚のように、泡と魚の群れと戯れながら海中を漂う充実感。 今、全てがあたしの脳内で花開く。「傍に居るから」 あなたの声が凛と響いて、夜の引く線が遠退いて行く。 孤独の淵で告げられた約束の台詞は、わたしを哀しみも苦しみも無い甘い綿菓子で出来た世界へと連れ去ってくれた。 何度も何度も、約束は繰り返され、その度に約束はその効力を強めて居ると、わたしは確かにそう感じて居た。同じ夜を越えて行く都度、あなたの関心の矛先はわたしだけに何の迷いも無く、真っ直ぐと向けられて居た。そのはずだった。 永遠を手にしたかのようにわたしはあなたをいつでも想い続けた。躊躇い等必要無かった。殆どの人間が何の疑問も持たないで明日はやって来ると想って居るように、わたしもあなたとの未来が永遠に続いて行くと信じて疑いもしなかった。人間の世界には裏切りという行為が存在する事等、遠い昔に忘れ去って居た。今まで沢山の傷や痛みを受けた分だけ、今在るこの幸福の象徴であるあなたにあたしは頼り切って、信じ切ってしまって居た。それが過ちだと言うのならば、あたしの短い一生を今すぐに終えても良い。過ちだと気付くその前に。この手で終わりにしても構わない。 永遠に続くであろう、あなたの腕の温かさに溺れて夜の闇を愛し生きて行くのと同じくらいに幸せな死が、あたしに訪れるだけの事なのだから。 あなたはわたしを羽の傷付いた小鳥のように大事に扱った。小さな鳥篭の中、ふかふかの毛布が敷かれてわたしはあなたの愛情を一身に受けて幸福だった。だから、いつまでもわたしの傷は治らなかった。治ってしまえば、あなたはこの鳥篭を開け放ち、わたしが飛び立つように差し向ける。だから、いつまでもわたしの傷は治らなかった。その事にあなたが疑問を持つまでに、そう長く時間はかからなかった。 雨は降り続く。 携帯が鳴る。 あなたは起き上がり、着信表示を見た途端に急いでベランダに出る。 雨なのに。わたしはそう思うが何も口にしない。微動だにしない。あなたが捲りあげた布団もそのままで、上半身が寒かったがそれでも動こうとはしなかった。死体のように転がり、目を見開き、ただ一点を見つめていた。 わたしとは関係のない、あなたが今ベランダに居る。それはあなたであってあなたではない、全くの他人だった。だからわたしは興味もなかった。正確には、興味のないフリを懸命にしていた。あなたを取り上げられたわたしは、空虚で無価値な自分に戻っていた。 あなたのいないわたしなど、なんのいみもかちもない。 数分も経たないうちに、あなたはベランダから部屋の中へと戻って来た。しかし、わたしの隣に戻って来る事はなかった。「帰るよ」 そう言いながら身支度を整えるあなたの姿をわたしは、くしゃくしゃになったシーツの中から見守っていた。そうする事しか、出来なかった。他にどうすれば良かったのだろう。行かないでと引き止めれば良かったのだろうか、それともじゃあまたねと余裕の表情でも浮かべれば良かったのだろうか。でも、どちらもわたしには出来なかった。あなたを引き剥がされたわたしにそんな気力は残っていなかった。 玄関の扉が静かに開く音がした。雨の音が大きくなった。そしてまた、小さくなる。あなたは部屋を出て行った。 暫く、雨の音に耳を澄ませていた。その中に紛れて、あなたの足音が微かに聞こえる気がした。 水槽をひっくり返して温い水に沈んだわたしの部屋では、熱帯魚が泳いでいた。熱帯魚は古代魚並に巨大だったが、ベタの雄をそのまま大きくしたような美しく愛らしい姿をしている。色は紺碧で闇夜と良く似合っている。わたしは部屋を悠然と泳ぐ熱帯魚を見つめ、そのエラの動きに合わせて一緒に呼吸をしていた。 天井に差し掛かった時、熱帯魚は忽然と姿を消した。同時にわたしは目を見開く。今まで熱帯魚が泳いでいたはずの場所を見つめ、瞬きひとつしないでいると、熱帯魚が再び見えた。けれどそれは幻だとわたしも勿論わかっている。 限界まで目を見開いて、それからゆっくりと瞳を閉じた時、瞼の裏が真っ暗で何も見えない事に驚いた。驚いて目を開けると、そこはもういつものわたしの部屋だった。あなたの居ない、いつもの部屋。熱帯魚も、消え去っていた。 終わる事を知らない夜雨は今宵もまた降り続いている。<了>

内緒で殺してしまおう。

 目を覚ますと煌々と明かりがついたまま、ソファに横になっていた。身体を起こすと、毛布がはらりと床に落ちた。暫くの沈黙の後、私はそれを手に取りきゅっと強く握り締めた。 部屋で雑魚寝をしているのは、郊外に一軒家を建てた私達夫婦の元へ新居祝いに来てくれた、旦那の高校時代からの親友達。昔から私も仲良くさせて貰っている面子だった。久し振りに逢った彼等の寝息が聞こえ、それがなんとも微笑ましく自然と顔も綻ぶ。 もう春なのにまだまだ肌寒い、今日もそんな夜だった。私は一枚だけカーテンの開いた硝子戸を発見すると、皆を起こさないようにそちらへ歩み寄り、戸をそっと開けた。サンダルを突っ掛けると、かじかむその足でまだ何も無い庭に降り立った。そして声を掛ける。暗闇に佇む、部屋で一つだけ見つからなかった見慣れた後ろ姿に。「広田君」 程なくしてゆったりとした返事が耳に届く。「ああ、起きたのか」「私が寝た後も飲んでたの?」「まあね。お前の旦那は相変わらず酒、弱いな。それとお前、さっき寝言、言ってたぞ」「嘘。私、何か変な事言った?」「……相変わらず騙され易いな、お前」 懐かしい遣り取りに頬を膨らませて、私は顔を背けた。緩んだ口元を見破られたくなかった。そんな事をしなくても月明かりさえないこの暗闇の中では、私の表情など読み取れないだろう。それ以前に、広田君は一度も振り返ろうとすらしていない。 いつだってそうだ。いつも広田君の後ろ姿ばかりを見ていた。降り注ぐ声だけが安堵感に変化し私の体内でこっそりと反響し続けていた。しかしその柔らかな声が次に齎したのは、全く正反対のものだった。「俺、近々結婚するかもしれないわ」「え……?」「お前んとこと、どっちが早いか競争だな」「……何が?」「子供」 そっと目を閉じて深呼吸をする。やはり、この想いは殺してしまうしかないのだ。終わらない螺旋を途切れさせなければいけない。それなのに出て来るのは、溢れ出る感情をひた隠しにした精一杯の強がりだけだった。「子供が出来たら、広田君の名前から一文字貰おうかな」「それは光栄。俺みたいな天才になれるぞ」 そんな自信に満ちた冗談を込めた温かな声を聞きながら、今にも呑まれそうな黒い空を見上げ、後ろ姿へと伸ばしかけていた手を静かに戻した。「広田君」「ああ?」「毛布、ありがとう」 焦るように振り返った広田君に、私は初めて真っ直ぐと微笑みを浮かべた。<了>

モノノナマエ

 彼女はゲームセンターで僕が取ったぬいぐるみ全てに名前を付けていた。ピンクのくまには「ローズ」、耳の垂れたうさぎには「キャロット」。 なんだ、可愛らしいじゃ無いか。誰に話をしてもそういった回答に辿り着く。そう、ぬいぐるみだけの話ならまだ良いのだ。 この前買った全自動洗濯機は即決で「ノア」と呼ばれていた。他にもテレビは「ヨーゼフ」、掃除機は「タクト」。彼女は自分の部屋のありとあらゆる物に名前を付けていた。 僕がそんな彼女の部屋へ転がり込んで少し経ったある日、遂に彼女は尋ねてきた。「ねえ、あなたにも名前を付けて良いかしら?」「何を言ってるのさ。僕は僕じゃないか」 すると、彼女はきょとんとした表情で見つめ返して来た。「そうよ。でもあなたに名前なんて無いわ。あなたは『僕』であたしは『彼女』。それだけでしょう?」 彼女に言われて初めて僕は、僕が『僕』でしかない事実に気付いた。「神様はあたし達に名前を与えなかった。だから同じ想いが繰り返されないようにあたしは名前を付け続ける。今度はあたしが神様になる番なの」 ふふっと笑う彼女の横顔は長い黒髪の影になり良く見えなかった。「あたしは今まであなたに名前を付けなかった。だけど、最近のあたしはあなたに名前を付けたくて仕方が無いのよ」 彼女の申し出を僕は丁重に断った。僕は彼女の事は好きだったが、彼女に支配されるのは好きでは無かった。「じゃあ、あなた、あたしに名前を付けてくれる?」 それも丁重に断った。僕は彼女に対してそのような責任を負う覚悟は出来ていなかった。 僕達は途方に暮れた。お互い名前の無いまま、名前で溢れるこの部屋に存在していた。しかし僕達よりも、名前を持っているくだらない物達の方がはっきりと輪郭を持って存在していた。 名前は自分で付け叫んでも意味が無い。誰かに呼んで貰って初めて名前はその役割を果たす。孤独から僕等を解放して、新たな孤独を僕等に与える。それは各自の存在を明確にする為に必要な儀式のはずだった。名前の無い僕等を包む空気は、部屋の中に侵入してきた夕焼けを食べ尽くすオレンジ色に染まっていった。 誰か、僕と彼女の名前を教えてくれませんか? 僕と彼女の存在が消えてしまないうちに。 神様が果てても続いている、神様が忘れてしまった僕達の未来は、風に吹かれていつか消滅するだろう。その前に。 誰か、僕と彼女に名前を付けてくれませんか?<了>