ムラサキの谷
浮遊しているわたしという存在に前も後ろもないのなら上も下もないわけで、ではひたすら歩みを進めているこの足は一体何処へと向かっているのだろう。
踏み込んだ右足は沈んでいき、やがて角度がついて身体ごと一回転した。くるり。あたりを覆っている白い靄が全身を使ってかき混ぜられる。無重力状態で雲の中を歩いているみたいだ。ふわり。滞留しているその白さはわたしの作った空気の流れに沿って動く。次第にこの白い靄に対して、自分の飼い犬かのような愛おしさがこみ上げてくる。そう思わせる何か、意思とか鼓動とかを感じるほどに白い靄は生きて存在していた。
何にも執着しないでここまで来たら、いつになっても手ぶらのままだった。荷物などは何一つ持たず、着の身着のまま歩き続ける。唯一、持ち物と呼べるだろうもの。それはそう、記憶。過去を持っているわたしは未来へと進むはずなのに、どうしても今という世界が見つからない。今はすぐに過去に姿を変えてしまい、いつまで経っても掴むことが出来ない。例えば、何か言葉を発すればそれはすぐ後方に流れていってしまう。となると、確固たる今という時間は一体どの瞬間のことを指すのだろうか。
「そんなもの、見つけようとするから、見つからないのよ」
声のする方に顔を向けると、一匹の蝶が忙しなく翅を動かしている。ヘリコプターがホバリングしているかのごとく、蝶はわたしの右肩上でその位置を守っている。ハチドリは確か同じ場所で飛び続けることが出来たはずだが、蝶はどうだったか。一箇所に留まろうとする意思は感じられるが、現実には大体同じくらいのエリア内でふらつくように飛んでいる。紫の翅は思っていたより分厚く、その分力強く空を切っていた。ひらひらというよりはふらふらとしたその飛び方は、今にも吹き飛んでいってしまいそうな不安定さで目が離せない。
蝶を見つめながらでもわたしは歩くことが出来た。真っ直ぐ前に進んでいるという保証はなかったが、真っ直ぐ前に進む必要はなかった。この白い靄の中では「真っ直ぐ」も「前」も、どれが正しいのかなどわからない。わたしはただ闇雲に足を動かしているだけであって、もしかしたら歩いてなどいないのかもしれない。本当に進んでいるのかどうかもわからないのだから、実はこれは歩くという行為の真似事をしているだけなのかもしれない。それでもわたしはこの行為が「歩く」ということだと信じている。何も見えない白い靄の中でひたすらに歩き続ける。歩き続けること以外、他にすることはない。
いや、ひとつだけあった。わたしは時折、夢を見る。夢の中のわたしは大学という場所に通っていて、優しい家族がいて、笑い合える友達に囲まれていて、少し素っ気ない恋人がいて、将来や色々について悩んでいて、世界が悲しみに染まらないようにと祈っていて、そして無力だった。とても微笑ましくあたたかな気分になれる夢。毎回同じ夢で、毎回蝶の声に気付き目が覚める。そして毎回そのままずっと夢を見ていたかったと思い、毎回すぐに忘れてしまう。
蝶がもう何も喋ってくれないことをようやく察知したわたしは、視線を前に戻す。正面がどこなのかもわからないけれど、わたしはいつもなんとなく前方と思われる方を見つめている。その確固たる視線が一筋の希望となれば良いのだけれど、実際はきょろきょろと所在なげにそれは泳ぎ、わたしの不安を顕わにするだけだ。なんだか、蝶の下手くそなホバリングの動きによく似ていた。
それから何日も経ったのか、あるいは数秒後だったのか、詳しくは覚えていないし覚えている必要もないだろう。ただ、その時わたしが歩みを止めたのは、止まろうと思ったからではないことだけは伝えておきたい。驚いて、自然に足が動かなくなったのだ。途切れることなく続いてきたことの終わりの瞬間なんて、そんな風に呆気ないものなのかもしれない。
ぽわん。可愛らしい音とともに突如として目の前に現れたスイッチ。その周囲は靄が更に濃くなっており、白い壁の一部が浮いているようにも見えた。オンとオフを切り替えるためのスイッチなのだろう。今はスイッチの下部が押されており、上部は今にも押して欲しそうな出っ張りを見せていた。これが核爆弾のスイッチだったら、この世界はきっとすぐに終わってしまう。それほどまでに、思わず手を伸ばしたくなる完璧なまでのスイッチだった。見事に誘われたわたしは人差し指をスイッチに押し当て、先端に力を込めた。ぱちり。一瞬で暗闇が訪れる。何も見えなくなって、慌てて指先を離してしまう。気づいた時にはもう、スイッチがどこにあるのかわからなくなっていた。部屋の電気のようにこんなに気軽に世界の明暗が変えられるのなら、わたしはどちらの世界を選ぶだろうか。そんなことを考えながらまた歩き出す。結局、わたしには歩くしか取り柄がない。やがて暗転した世界の中に浮かび上がる白い小さな扉が見える。選択肢など用意されていない。導かれるまま、暗闇世界に促されるまま、わたしはその扉を開いた。
結論から言うと、扉はどこにも繋がっていなかった。わたしの目に飛び込んで来たのは、わたしの姿。驚いたわたしは歩みを止め、もうひとりのわたしを見つめる。右肩周辺を飛び回っていた蝶がわたしの頬に止まると、同時にもうひとりのわたしの頬にも蝶が止まった。扉を開けるとそこは、鏡になっていたのだ。
ゆっくりと蝶は、優雅な曲線を描くようにその翅を動かす。頬に止まった紫は、どちらのわたしに止まっているのかもわからない。鏡の中のわたしなのか、それともここにいるわたしなのか。映し出された世界。覗き込んだ鏡の中の世界のわたしがわたしを見つめる。見つめているのは、わたしなのか。それとも鏡の中のわたしなのか。頬に止まった蝶がどちら側にいるかなんて、本当はそんなのどうでも良いことなのかもしれない。見つめ合うわたしたちは辿り着くべき場所を探して歩き、そしてようやく互いの存在に巡り逢い気付いたのだ。
鏡の向こうから、手が伸びる。ぎょっとしているわたしの胸に、わたしは素早くブローチをつけてくれた。小さな雪の結晶の形をしたそれは、勲章のように輝いて見えた。
「また、あの夢でも見ていたの?」
気付いたら世界は白く、蝶は右肩上を飛んでいた。誰かがあのスイッチを押したのかもしれない。蝶の言葉にわたしは何度か小さく首を振る。もうあの無力で幸福な夢を見ることはないのかもしれない。だって、出会ってしまったから。その証拠に、今もわたしの胸にはあのブローチが光っている。そうしてわたしはまた、歩を進める。白い靄の中を何処までも、歩き続ける。頬を伝う涙の意味なんて、きっと考えても無駄なのだから。
「さあ、着いたわ」
蝶の一声で、周囲の白い靄は一気に消えていく。さっきまで纏わりつくようにそこら中に存在していた癖に、あまりに呆気ない終わり方だった。視線を落とすと、切り立つ崖。その高さに足がすくんで、思わず息を呑む。あと一歩進んでいたらわたしは谷底へ真っ逆さまだった。今にも震え出しそうな身体を押さえ込むように抱きしめる。直面する恐怖に怯えながらも、一度視界に入れてしまった暗い谷底からは目が離せない。
「ここは、誰も知らない、秘密の谷」
「わたしたち、ここで、変わるのよ」
恍惚の表情でそう言い終えると蝶は、はらりと谷底へ落ちていった。待って、と言いかけてようやく気づく。わたしは、発する声を持ち合わせていない。道理で、言葉を発してみても今が掴めないはずである。発しているつもりで、実際わたしは何も声に出来ていなかったのだ。
谷底は深い。けれど親切にも、谷を削って作られたであろう階段がある。わたしは谷を降りた。谷に沿って作られた階段を降りていくと、蝶の落下していった場所からどんどん離れてしまう。それでも下に降りるためには、横方向への移動が必須だった。谷底へ飛び降りる勇気はわたしにはない。決まっている道というのは、こんなにも無情で苛立たしいものなのか。不安ばかりの白い靄を懐かしく思う。
谷底が近づいてくると、わたしは眼前の風景に圧倒された。暗闇だと思っていた谷底には、うっすらと色が付いている。それはよく見覚えのある色だった。もっと、と思い急いで階段を下りていく。次第にはっきりとしていくその色は、近づいて行けば行くほどその強さを発揮した。
紫に染まっているように見えた谷は、数え切れないほどの蝶で埋め尽くされていた。ホバリングをするため翅を動かすと隣同士の蝶がぶつかり、鱗粉が舞い、大気まで紫に染まっている。かろうじて届く僅かな光に群がるように、蝶たちはその命を燃やしていた。
そして一匹、また一匹と燃え尽きていく。はらり。落下していく蝶の紫が、最期の曲線を描く。次から次へと続いていくその様子は、小さな世界の滅亡を示していた。もうすぐこの谷間は、足の踏み場もないくらいに朽ちた紫で満ちることだろう。わたしはそのことを何の感慨もなく、受け止めることが出来た。
最後の蝶の舞いが終わるのを見届けると、息絶えた蝶たちをひとつひとつ標本にすることに決めた。硬くなってしまった蝶の身体を軟化させるため、胸のブローチのその針で胴体を満遍なく突付く。蝶が蝶であった証を残しておきたい。その際に美しい薄紫の翅がなるべく崩れないようにすることは、償いのように感じられた。わたしの償いではない。きっとそれは蝶自身の、もしくはそういう存在がいるのだとしたら、神様のものだろう。
蝶の死骸で紫色に染まった谷。冬を越せなかった蝶たちは、その身体を捨てて飛び立った。そしてその蝶の亡骸に針を突き立てるわたしは、春になってもまだこの身体を捨てられずにいる。
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